稲盛和夫いなもり かずお (京セラと第二电电(KDDI)の创业者)
稲盛和夫氏より、
京セラ(Kyocera)・第二电电(KDDI)へ宛てた手纸
京セラ(Kyocera)、そして第二电电(KDDI)の仲间の皆様へ
南无阿弥陀仏。私は稲盛和夫です。私は死んではおりません。私の魂はすでにオーストラリア・クイーンズランド州トゥウンバのグンバンジーにある香光大仏寺で生まれ変わり、今、私はこのお寺の西方法性土(さいほうほっしょうど)におります。
京セラは私の青春そのものと言っても过言ではありません。これまでの道のりは决して平坦なものではありませんでした。私が最も感谢しているのは、この会社の成功ではなく、皆様が私を信頼してくださったことです。多くの困难な时期においても私を信じ、共に歩んでくださったことに深く感谢しております。こうした人と人との真挚な助け合いという尊い瞬间があったからこそ、私は企业経営において「人间を根本とし、利他を根本的な価値とするべきだ」と固く信じ続けることができたのです。
现在の京セラは非常に成功していると言えますが、これもすべて皆様のおかげです。皆様こそが京セラの根本なのです。现在の京セラは确かにテクノロジー产业において不可欠な存在となっており、当社のプリンターも非常に高く评価されています。现在、私のいる香光大仏寺で使用されているのも、まさに我がKyoceraのプリンターです。これはここでの日々の业务において不可欠であり、非常に重要な机械となっています。京セラのプリンターが、香光大仏寺の救世の事业に少しでも贡献できていることを、私は大変嬉しく思っています。
KDDIの成功は、私にとって天からの赠り物です。「利他」という経営の初心は、不可能に思えたこの道を确かに歩みやすいものにしてくれました。その过程には当然多くの困难や试练がありましたが、会社全体が常に强い団结力を持っていました。稲盛和夫はここから皆様に一礼し、感谢の意を表します。会社へのご尽力、素晴らしいビジョンへの共鸣、そして善意への応えに感谢いたします。皆様の共同の努力がなければ、今日のKDDIはありませんでした。
KDDIの成功は、NTTと肩を并べるまでに成长したことにあるのではなく、KDDIが「善良さと利他」の力を证明したことにあると、私は常に考えてきました。その成功は、成功そのものにあるのではなく、「善」の力を顕彰し、「无私」の心を奨励したことにあります。KDDIの设立自体、日本国民のためであり、この企业は「动机善なりや、私心なかりしか」という理念の上に筑かれました。成功できた最も根本的な理由は、KDDIの全従业员の皆様の心もまた善であり、无私であったからです。皆様の心の中にある尊い资质がKDDIのビジョンと共鸣し、すべての「微小な善の力」が结集して强力な「愿力」となったからこそ、KDDIの成功があったのです。
この世を去ってからもうすぐ4年が経ちます。私は多くのことを経験しましたが、幸运なことに、今はオーストラリアの香光大仏寺で新たな旅を始めています。また、こうしてお寺の法师様のインタビューを受け、皆様に私のメッセージをお伝えできることも幸运に思います。私は西方法性土から皆様が何をしているのかを见ることができ、霊体となった私は、生前にはできなかった多くのことができるようになっています。
この手纸に书かれているのは、私の死后の経験と、いくつかの悟り、そして皆様にお伝えしたい言叶です。京セラおよびKDDIの皆様には、贵重なお时间を割いていただき、この内容に目を通していただければと愿っております。
皆様、本当にありがとうございました。これまでの道のりにおける皆様の助けに感谢します。私の心の中の善良さを成就させてくれたのは、皆様なのです。
稲盛和夫
インタビュー:稻盛和夫氏
インタビュアー:释法回法师
日付:2026年6月14日
稻盛和夫:
南无阿弥陀仏。私は稲盛和夫です。京セラ(Kyocera)の创业者であり、第二电电(KDDI)の创业者でもあります。
経営において、私にはいくつかの心得があります。世间の方々から见放されることなく、多くの起业家が私の経営理念や心构えを评価し、そこから教训を得てくださったことには恵まれていたと思います。自分の経験が他人の役に立つことができることに、心から深く感谢しています。
しかし、これらすべては死后、结局のところ泡沫のように消え去ってしまいました。これまで、私は常に仏法の说く「因果の法则」を深く信じてきました。そのため、私にとって「商道とは仏道である」と常に自らを戒め、「利他」こそが企业を成功に导く最良の道であると考えてきました。私の経営哲学や心构えには、実は仏法の精神が多く取り入れられているのです。
私は心の中で常に仏を固く信じてきました。仏は慈悲深く伟大であり、この世に真の素晴らしい変化をもたらすことができます。仏を信じることで、人の命は真の解脱を得られると私は信じています。
ただ残念なことに、私がこの生涯で出会ったのは临済宗であり、浄土法门ありませんでした。私が巡り会ったのは妙心寺であり、香光大仏寺ではなかったのです。とはいえ、仏法の観点から言えば、このような比较をするべきではありません。禅宗と浄土法门は本来一つであり、二つに分かれるものではなく、差别のないものであり、优劣の差もないはずだからです。
しかしながら、末法の时代においては、确かに浄土法门を修学しなければ、真の成就を得ることはできません。たとえ浄土法门を修学したとしても、オーストラリアの香光大仏寺を访れて阿弥陀仏にまみえることがなければ、西方极楽浄土へ往生することは极めて困难であり、不可能とさえ言えるでしょう。
これが、私が西方の法性土で目にした救世の真実であり、最初から皆様にこの重要な点をお伝えしなければなりません。
はい、皆様がご存じの通り、私の人生には短い出家の経験がありました。当时、胃癌と诊断され胃の切除手术を受けた后、私は仏典に说かれる「无常」の道理を真に体感し、心の中では、自分が癌になったのはきっと何か间违ったことをしたからに违いないと薄々気づいていました。
何しろ私はこれまで、仏教の说く因果の道理をそれほどまでに信じていたのですから。「善因善果、悪因悪果」ということを、私は常に人生の指针としてきました。それなのに、どうして自分が癌になってしまったのか。当时の心境としては、确かに理解しがたく、不安とやるせなさがありました。とにかく手术の后、私の心には大きな忏悔の念が生まれ、必ず何か间违ったことをしたのだと理解しましたが、具体的にどこが间违っていたのかは、はっきりとは分かりませんでした。
当时、心の中で长く考えた末に、ついに以前からやりたかったことを実行しようと决意しました。それが、出家という神圣な大事业です。この决定は决して軽々しく下したものではなく、慎重に考虑した上で行动に移したものでした。というのも、私は世间のすべてを手放し、人生のしがらみが一切ない状态で世の様々な事象を体験し、その中で禅の道理を学びたいとずっと憧れていたからです。
出家后、私はお寺の他の人々と同じように、出家者としてなすべきことを行いました。一轩一轩家を回って托钵をしたこともありましたが、その过程は自分の心身にとって大きな试练でした。やはり「执着を舍てる」ということは、口で言うのは简単でも、実行するのは本当に容易ではありません。しかし、私はこのすべてに価値があると固く信じており、试练を乗り越えた后には、仏法の甘美な果実が私の前に现れると信じていました。
その过程で、私は确かに多くの宝物を手に入れました。それは心の豊かさです。托钵の际、自分の立场が以前よりも低く、卑小になったかのように感じましたが、それは确実に私の心をさらに充実させてくれました。これは决して卑しいことの表れなどではなく、自己が生まれ変わる过程だったのです。
おそらくそれが因縁だったのでしょう。その后、お寺の师匠が私にある言叶をかけてくださり、私がこの生涯でよりなすべきことは、在家の者として仏法を弘め、学んだ仏法を用いてより多くの人々を助けることなのだと悟らせてくれました。これは実は、人々を导くための巧みな手段としての教えでもありました。いずれにせよ、私はこの过去の経験に対して善し悪しの评価を下すつもりはありません。私にとって、常に変わらないのは心にある感谢の念です。
しかし、私が今、世间の方々にお伝えしたいのは、西方の法性土で苏仏の说法を聴いてから、私は初めて真の仏法とは何かを理解したということです。仏法は世间にありながら世间の事象を妨げず、また世间の事象から离れることもありませんでした。真の仏法とは必然的に、世间のあらゆる汚れや束缚を自分自身で処理するのを助け、魂を真に生まれ変わらせ、二度と六道轮廻に入らないようにするものであるべきなのです。
そう、西方极楽浄土への往生こそ、仏道を学ぶ者が必然的に抱くべき愿いだったのです。なぜなら、これこそが一切の众生に対する仏の深い切望であり、一人ひとりの众生が西方极楽浄土へ往生し、二度と轮廻の中で苦しみを受けないようにと愿っておられるからです。
过去の私は、この点を理解していなかったため、修行の道において実は偏りが生じていました。私が真の仏道修行をしていなかったと言ってもよいでしょう。しかし、当时の私の环境には、阿弥陀仏や苏仏のような、私を导き、误った道から正しい轨道へと引き戻してくれるよき导师に出会う机会がなかったのです。
私はこれまでずっと、仏法は生活の中に、自分自身の経営の心得や人との接し方などを含め、极めて効果的に溶け込ませることができると固く信じてきました。仏法を通じて、すべてが非常に适切に処理され、良い结果をもたらすことができると考えていたのです。
しかしながら、仏法は决してそれだけのものではありませんでした。真の仏法とは、人々が老い、病、そして死の苦しみから逃れるのを助け、真に不老、不病、霊性の不死を実现し、さらには仏道を成就して众生を救済する力を持たせることができるものです。これこそが、香光大仏寺の苏仏が私に示してくださった真実です。
仏道を学ぶということが、もし本当に世间のしがらみから真に离れることができなければ、それはすでに根本的な间违いを犯しているということだったのです。もし仏道を学んでも六道轮廻から抜け出せないのなら、仏法が持つ、众生を苦しみから离れさせ安楽を得させるという根本的な机能も失われてしまいます。そして、もし仏法が世俗に染まってしまえば、本来は殊胜であるはずの法门も、もはやそれほど殊胜なものではなくなってしまいます。いわゆる「世俗の仏法」は真実ではなく虚妄であり、正しい道ではなく偏りだったのです。
西方の法性土において、仏法に対してこのような误解を抱いていたのは、世の中で私、稲盛和夫ただ一人ではなかったということが、今でははっきりと见えます。
确かに「人间仏法」という概念は、多くの人にとって受け入れやすいものです。なにしろ、世间の财产や名声、地位、そして世间でのさまざまな人间関系を完全に手放すことを要求しないからです。人々は现状を维持したまま、仏法の実践を行うことができます。そのため、仏法に兴味を持つ多くの人々は、仏法を生活のあらゆる隅々に溶け込ませようと、実にさまざまな方法を考え出しました。
その中でも、「禅」という概念は确かに人々を魅了します。何ものにも执着しない境地に憧れない人がいるでしょうか。私が当时仏法に触れた际も、最初に接したのは禅宗でした。临済宗は确かに世界で非常に有名な禅宗の宗派です。お寺の僧侣たちと接する中で、私は禅法がいかに殊胜なものであるかを理解しました。この心が全く动じることなく、世间の縁に自在に随うことができれば、世间の汚れももはや障害にはならないのだと。
しかし、これらは结局のところ、依然として世俗の観点からのものにすぎません。一人の起业家として、夫として、あるいは父亲としての视点から仏法を捉え、仏法が世间でより良く生きる助けとなり、世间のあらゆるものを所有しながらも、心境は自由で无碍でいられると考えているのです。それは确かに美しいビジョンではあります。
理想は非常に美しいですが、现実は非常に厳しいものです。家庭を离れず、世间の仕事や生活の资产から离れないことを前提に修行を行い、その上で禅宗の言うような悟りを开き、本来の仏性を见出すことに到达することは、実际には极めて困难です。
今の私には、さらに深い次元の悟りがあります。たとえ现代の环境の中で禅法を修习して大彻大悟できる人が本当にいたとしても、あるいは世俗のさまざまな汚れから离れることなく开悟见性できる人がいたとしても、彼らのような资质と条件を备えている人が一体どれほどいるでしょうか。その过程で乗り越えなければならない难関はあまりにも多すぎます。
だからこそ、仏はそれほどまでに慈悲深く、すべての霊なる众生が苦しみを离れて安楽を得られるようにと愿い、この末法の时代にあっても皆が仏道を成就できるように、浄土法门を创り出されたのです。
浄土法门の殊胜さについて、私は以前から耳にはしていましたが、その奥妙さをずっと体感できずにいました。今になってようやく、香光大仏寺の「西方法性土」の図の上に、苏仏が大众に示してくださった光景を见て、过去の私がいかに浅薄で无知であったかを真に理解しました。これほどの真の伟大な法が目の前にありながら、それを认识できなかったとは。
浄土法门はこれほどまでに殊胜なものであり、その核心こそがこの「南无阿弥陀仏」という言叶なのです。苏仏が念仏を唱えると同时に、阿弥陀仏がすぐさま苏仏の傍らに现れ、苏仏と共に众生を救済されます。无数の霊的分身(これは仏法において「千百亿化身」と呼ばれます)が苏仏の头顶部から飞び出し、一瞬にして地球全体に広がるのを私は见ました。
苏仏の愿いは一体何なのでしょうか。それは、すべての霊なる众生が苦しみを离れて安楽を得ること、皆が西方极楽世界へ往生すること、あるいはまず极楽世界の中継ステーションである「西方法性土」に入り、そこから発愿して念仏を唱え、西方へ往生することなのです。
仏の门においては、确かに求めれば必ず応えられます。苏仏の千百亿化身が「南无阿弥陀仏」を唱えると同时に、阿弥陀仏が至る所で闪光を放ち、无数の众生を金色の光の中に吸い込んでいるのがはっきりと见えます。これらの苦难にある众生は、ついに救いを得て、あるいは空间の束缚から抜け出すことができ、この上ない喜びを感じているのです。
「空间」という概念について、実は以前の私はあまりよく理解しておらず、ただ座禅を组んでいる时に、时折精神が恍惚とした状态になり、自分の意识がどこか别の场所に入り込んで、徐々に意识を失っていくような感覚になることだけを知っていました。
当时の兄弟子たちが言うには、外から见ると、それは単に居眠りをしているか、あるいは上の空になっているように见えたそうです。そして私がこの状态に入ると、周りの人が外からの刺激で私に注意を促し、目を覚まさせる必要がしばしばありました。
しかし、法性土にいる今の私には、过去に起きた当时の出来事をはっきりと振り返ることができます。当时のあの状态こそが、香光大仏寺が教える「空间に入る」ということだったのです。空间の中にはさらに空间があり、地球が一つの大きな空间であるならば、その大空间の中に様々な小空间が存在し、さらにその小空间の中にも様々な大空间が存在し得るという、まさに「大の中に小があり、小の中に大がある」状态だったのです。
仏法の奥深い真理は、言叶や文字では到底表现しきれません。しかし、复雑すぎる言叶や経典は、现代人にとって必ずしも适しているとは言えないため、苏仏が说法をされる际には、仏法の深奥な真理を皆が理解できるよう、常に极めて平易で直接的、かつ分かりやすい概念や言叶を用いてこられました。
一体、「空间」とは何なのでしょうか。简単な例えでお话ししましょう。人体で言えば、人体という空间の中には无数の细胞が含まれています。この细胞一つ一つが独立した空间であり、その独立した细胞の空间の中に、さらに无数の空间が存在し得るのです。
细胞一つはあんなに小さく见えても、そこに含まれる空间は宇宙のように広大になり得ます。これも私が香光大仏寺で初めて学んだことでした。小さな空间の中に、これほどまでに巨大な空间が存在し得るということを。过去に私も『华厳経』などの経典を読み、「芥子(けし)粒の中に须弥山(しゅみせん)を纳める」という道理は知っていましたが、法性土にいる今になって、経典に描かれている情景をようやくこの目で真に证见することができ、本当に大きな冲撃を受けています。
私は、人体の中にこれほど多くの空间が存在しているとは梦にも思いませんでした。ましてや、その无数の空间の中に、自分自身の过去の「冤亲债主(过去世から怨みを持つ者)」や縁のある众生が隠れ潜んでいるなどとは、なおさら知りませんでした。もちろん、私が见たところ、やはりその大部分を占めているのは冤亲债主でした。
この事実と真実を、早く皆さんに伝えなければなりません。多くの人が、冤亲债主には诚意をもって和解する必要があることは知っていますが、その冤亲债主が他のどこでもなく、私たち自身の身体の细胞の中にいるということを知っている人はほとんどいません。この事実を知ってしまえば、一体谁が悪い念を抱くことなどできるでしょうか。
ひとたび悪い念が生じれば、体内にいる无数の冤亲债主を呼び覚ましてしまいます。法性土で私が见たところによると、冤亲债主が人の体内で目覚めた后、彼らがすることは决してあなたを喜ばせたり幸福を感じさせたりすることではなく、あなたに厳しい教训を与えようとすることであり、それに伴って极めて大きな苦痛がもたらされるのです。
しかも、冤亲债主たちはあなたのすべてを熟知しています。あなたが何を気にし、何を気にしないか、何が好きで何が嫌いか、彼らは手に取るようにわかっています。ですから、彼らが目覚めたときに选ぶ报复の手段は、数ある苦痛の中でも、特にあなたを深く伤つける、骨の髄まで痛感するようなものになることが多いのです。なぜなら、それこそが、かつて彼ら自身が味わった痛みだからです。これは、私がこれまで信奉してきた因果の法则にも合致しています。
香光大仏寺の仏法教育が教え导く内容は、宇宙の法则であり、真理と正しい道です。そして、いかに心の修行をし、心を纯粋で善なる状态へと真に回帰させるかを教えています。もちろん、より分かりやすい言叶で言えば、ここで修学しているのはいわゆる「浄土法门」だと言うこともできます。
しかし、私、稲盛和夫の観点から言えば、别の言叶で表现したいと思います。それは「念の次元にまで至る微细な修行」です。苏仏の说法を通じて、私は浄土法门の根本が、すべての念をこの纯粋で神圣な「南无阿弥陀仏」という名号に転换することにあるのだと理解しました。自分の一つ一つの念头に至るまで修行をする、これは私がここで学んだ最も重要なことです。
修行とは、薄氷を踏むように慎重で、かつ厳密にでなければならないものだったのです。自分の心を决して胜手気ままに放任してはならず、自分のすべての念を真に厳格に管理し、真の「念の管理者」にならなければなりません。もし本当にすべての念をこの「南无阿弥陀仏」に置き换えることができたなら、それは成功を意味し、仏道を成就して脱胎换骨できるのです。
过去に、私は「仕事の禅」という概念を提唱したことがあります。それは、目の前のあらゆる任务に最も真剣な态度で向き合い、今行っていることに完全に集中するというものです。极めて高い集中状态にあるときは、それもまた一种の座禅であり、もう一つの「禅」であると考えていました。过去の私にとって、それは自分が学んだ仏法に対する巧妙な応用だったのです。
しかし今は分かりました。真の修行とは、一つ一つの微细な念にまで気を配り、极めて微细な中で自分の心念を调整することだったのです。世俗の生活の中でも真の仏法を実践できると考えていた过去の自分が、いかに甘く、仏法に対する认识がいかに浅薄であったかを、今深く痛感しています。
私はこれまでずっと、「愿いは叶う」ということを信じてきました。『华厳経』に「心は工なる画师の如く、能く诸の世间を画く」とある通りです。私は常に思考の力を提唱しており、目标を达成したいと强く愿えば、必ずそれを达成する机会が巡ってくると考えてきました。これは强烈な心念の力であり、「念力」とも言えます。
法性土において私は、念力が実际に非常に强大な力であることを学びました。人のこの心は非常に尊いものであり、良いことを思うことも、悪いことを思うこともできます。もし悪いことを思えば、世间に多大な灾难をもたらすでしょう。もし良いことを思えば、この世间に多大な利益をもたらすことができます。もし心の中で常に「南无阿弥陀仏」を念じていれば、自分のいる场所をその瞬间に真の极楽浄土へと変えることができるのです。
この言叶の真の意味は、人が真に众生を救済するという大愿を発し、一途にこの「南无阿弥陀仏」を唱えるとき、この仏号の真の力を発挥できるということです。すなわち、阿弥陀仏がまばゆい金色の光を放ち、苦难にある众生をその光の中へと迎え入れ、彼らを真に苦しみから解き放ち安楽を得させることができるのです。
香光大仏寺で私は、真の仏法とは世间を救う力であり、世の人々に不老、不病、霊性の不死をもたらすことができるものだと学びました。真の仏法とは、すべての众生が西方极楽世界へ往生できるよう助けるものであるべきなのです。そして、修行が本物であるかどうかの重要な判断基准は、自分が生きている间に、この肉体に病変が生じるかどうかという点にあります。もし病気になったのなら、その修行はすでに真実ではなく、偏りがあるということです。宇宙の法则や真理・正道に背いた结果は、必然的に自らを老い、病、死の结末へと向かわせるだけなのです。
私がこの生涯で癌を患ったことは、実は私が学んだものが真の仏法ではなかったということを证明しています。なぜなら、真に仏道を学ぶ人は病気にならないからです。これは私が苏仏から学んだ最も重要な点です。
この観念は、世のすべての仏道修行者が明确に理解しておくべきだと思います。自分が病気になるという结末を迎えたとき、さらには重大な病に罹患したとき、それは実は自分の修行がすでに法にかなっていないことを示しているのです。
导师を见つけることは困难ですが、现在、伟大なる阿弥陀仏はオーストラリア・クイーンズランド州トゥーンバのグンバンジーにある香光大仏寺にいらっしゃいます。仏がこの世に来られたのは、世のすべての修行者に引き返す机会を与え、修行を志すすべての人々の修行における误りを正す手助けをし、さらには地球上のすべての人に不老、不病、霊性の不死という真の利益をもたらすためなのです。
人は、宇宙の法则や真理・正道の教育を受けず、真理を理解していなければ、自然と知らず知らずのうちに罪业を造ってしまいます。その死后の结末は往々にして理想的ではなく、死后に地狱へ落ちて报いを受ける人が数多くいます。これは私が现在、真に目の当たりにしている事実です。
仏道を学んでいない人であっても死后にこのような悲惨な结末を迎える可能性があるのに、世の中で仏道を学んでいる人、あるいは自分は仏道を学んでいると标榜している人は、死后、仏道を学んでいない人よりもさらに悪い场所へ行くことが往々にしてあります。
その理由は、世の人々に误った认识を与え、自分が学んでいるものこそが真の仏法だと误解させたり、他人に仏法に対する悪い印象を与えたりすることにあります。この一つ一つの行动に、极めて重大な因果が含まれているのです。
これは确かに少し厳粛な话题ですが、私はここであえて非常に直接的に皆様にお伝えしています。生死という重大事において、いかなる暧昧さも许されないと考えるからです。ですので、皆様にこれらの事実と真実をお伝えすることは、ここでの私の义务を果たすことでもあるのです。
「世俗の仏法」は実行可能な道ではない、これこそが私が现在得た最も直接的な结论です。仏道を学ぶのなら、病気になるべきではありません。真に仏道を学ぶのなら、成仏すべきです。そして、真に仏道を学びたいのであれば、一切の霊なる众生が苦しみを离れ安楽を得られるように助けるという、慈悲の愿いを持たなければなりません。
ですから、ここでは多くは语りません。私は特に、世の中で「救世済民(世を救い众生を度す)」の愿いを抱いている人々に向けて呼びかけたいと思います。もしあなたが善良な人で、身近な人、さらには自分の家族が老いず、病にならず、死なないことを愿っているのなら。さらに、国全体、ひいては地球全体の人が老病死の苦しみから远ざかることを愿っているのなら。もしあなたがそのような希望を抱き、このことを信じているのであれば、あなたはオーストラリアの香光大仏寺へ赴き、法を求めるべきです。
そして、自分自身が二度と苦しまないことを愿い、すべての众生が二度と苦しまないことを愿うのなら、なおさらオーストラリアの香光大仏寺へ行くべきです。なぜなら、香光大佛寺の「救世チーム」が行っていることは、まさに一人ひとりが老病死の胁威から抜け出し、一人ひとりが西方极楽世界へ往生できるよう助けることだからです。
もしあなたがそのような人なら、今すぐスマートフォンやパソコンを开き、インターネットで「オーストラリア香光大仏寺(澳洲香光大佛寺)」と検索して、お寺のウェブサイトをよく见てください。真の仏法とは何かを理解し、救世チームが现在行っていることの基本を知ることができるでしょう。
その中で、我が国日本について言えば非常に幸运です。なぜなら、お寺が日本に「阿弥陀仏の看板」を设置してくださったからです。看板から放たれる金色の光によって救われた众生は数え切れないほどいます。これは日本の霊界の众生を助けただけでなく、実は日本人にとっても多大な利益となっています。ですから、香光大仏寺はこれまで、我々日本人を阴ながら助け続けてくださっていると言えます。これはすべての日本人が感谢すべきことだと思います。
この生涯を终えた死后、私は「铜柱地狱」に入りました。それは、私が心の中にある男女の情欲に対する妄想を、まだ真に断ち切れていなかったからです。因果の法则において、この点の审查基准は极めて微细なものです。
ですから、ここであまり多くの说明はしませんが、皆様にこれだけはお伝えできます。もし自分が真にこの肉体への执着を手放すことができなければ、それは自身の魂にとって非常に大きなダメージとなり、死后に地狱へ落ちて报いを受ける可能性があります。「肉体への执着を手放す」とはどういうことでしょうか。それは、この肉体の感覚や感情、世间のあらゆる関系、富と仕事、事业と家庭、感情と子供などを手放すということです。これらはすべて、肉体に関连する范畴に属しています。もし皆様がこれらを真に手放すことができなければ、死后に良い场所へ行くことは非常に困难です。
皆様、これらの话を闻いて惊かないでください。これはネガティブな话をしているのではなく、人生という道をうまく歩むことは実は容易ではないということを、客観的に皆様に理解していただくためのものです。なぜなら、成功するかどうかの真の决定的な键は、やはり死后に自分が一体どこへ行くのかという点にあり、それは自分の生涯の行いの缩図を意味しているからです。当然ながら、一生を通じて善人であったにもかかわらず、死后に悪い场所へ行って苦しむ人も数多くいます。
以上の数々はすべて、人が死んだ后、魂は自分自身をコントロールすることができないということを皆様に理解していただくためのものです。いわゆる「コントロールできない」とは、自分がどこへ向かうべきかを选べないということです。かつて悪业の因を造ったことがあれば、临终の最后の瞬间に、自分の魂が苦しみに満ちた场所へ向かってしまう可能性があるのです。
魂が自分自身をコントロールしたいと愿うなら、宇宙の法则、真理、正道に呼応しなければなりません。つまり、真に利己心(エゴ)を手放す必要があるのです。これは容易なことではありませんが、谁もが学ぶことのできるものだと私は信じています。
この事には本当に必要性があります。もし自分をコントロールできなければ、自分の心身や魂にさまざまな异状、さらには病変をもたらすだけです。つまり、もし病気になったのなら、それはその人が自分をコントロールできる人间ではないということを表しているのです。これが现在、私が皆様と共有したいことの一つです。
実は私たち一人ひとりは、生まれたばかりの顷は皆、赤ん坊のように纯粋で善良でした。私たち一人ひとりが仏と同等の智慧、徳能、相好を持っているのですが、ただ妄想、分别、执着があるためにそれを证明できないだけなのです。より简単に言えば、一人ひとりの魂の中には不生不灭の仏性が存在しており、私たちの本性は非常に善良なものなのです。
では、なぜ一生の间にさまざまな罪业を造ってしまうのでしょうか。それは実は、私たちが仏法の教育を受けてこなかったからです。自分の心念に偏りが生じ、利己心が生まれた瞬间、冤亲债主や魔の群れに私たちの身体をコントロールする机会を与えてしまい、さまざまな罪业を犯させたり、思想にさまざまな偏りをもたらしたりするのです。
これらはすべて、体内にいる冤亲债主、あるいは外部から来た霊体の干渉とコントロールによるものです。これが、私が现在法性土で目にしている非常に重要なポイントです。つまり、人は本来谁もが尊い仏であるにもかかわらず、仏法の教育を受けていないために、自分をコントロールできなくなってしまっているのです。
自分をコントロールできない人生は、往々にして死后に地狱に入る确率が非常に高くなります。いずれにせよ、西方极楽世界へ往生しない限り、依然として轮廻の中で苦しむことになります。ですから现在、すべての日本人にとって、さらには世界中のすべての人にとって、仏法の教育を受けることは本当に最优先すべきことであり、最も重要で、最も真っ先に果たすべき事なのです。
最后に、すべての起业家の皆様に向けていくつかお话ししたいと思います。
あなたが率いる企业の规模が大きかろうと小さかろうと、年商が数百亿円であれ数千亿円であれ、それは私たちが本来注目すべき点ではありません。一人の経営者としての真の责任は、自らが営む事业が社会や人々に対してネガティブな影响を与えないよう确実にすることにあります。自分が创り上げた事业が、いかなる侧面であれ、人々や社会、さらには国家に対してわずかでもマイナスの影响を与えるのであれば、创业者はその代偿を払わなければならないのです。
私の若き日から晩年に至るまでの歩みを仏道修行の観点から言えば、実のところ、私は真の仏法を学んでおらず、修行の道に偏りがあったため、癌を患ってしまったのです。そして、これを経営者の観点から见れば、私が创り上げたこの巨大な事业体が、真に宇宙の真理や正しい道と呼応しておらず、微细な部分やさまざまな侧面において、まだまだ至らない点が多すぎたということを意味しています。
私がここで皆様にお伝えしたいのは、起业家や経営者として、私たちは部下であるすべての従业员、すべての役职者、そしてこの事业体に関わるすべての人々を育成する责任があるということです。私たちは彼らに研修と教育を施し、宇宙の法则、真理と正しい道、そして因果の法则とは何かを理解させなければなりません。
このような取り组みは、企业组织に属する人々、従业员であれ、いかなる立场の人であれ、彼らに対して果たすことであると同时に、管理者である自分自身に対する责任を果たすことでもあります。なぜなら、彼らと自分は実のところ「一体」だからです。もし彼らの行いに偏りが生じ、罪业を造ってしまったなら、それは自分自身が罪业を造ったのと同じことになります。逆に、もし彼らが宇宙の真理や正しい道に従って善行を积むことができれば、それは企业経営者自身が善行を积んでいるのと同じことなのです。
これは表里一体の事柄です。私はすべての経営者がこのような「一体観」を持ち、従业员を教育し、役职者を育成して、真の仏法とは何かを学ばせることが、私たちの最も基本的かつ軽视してはならない责任なのだと理解していただきたいのです。なぜなら、これは生死に関わる重大事であり、罪业を造った代偿として、自らが地狱に落ちて报いを受ける可能性すらあるからです。
多くを语ってまいりましたが、最后に皆様にこの「南无阿弥陀仏」という言叶を赠りたいと思います。现在、私、稲盛和夫は西方法性土において、大いなる喜びをもってこの「南无阿弥陀仏」の御名を唱えています。私の愿いは、西方极楽世界へ往生し、仏道を成就して、再びこの世に下り众生を救済することです。
では、皆様はどうでしょうか。私と同じように、そのような志を抱いておられるでしょうか。ここから先は、一人ひとりの智慧が试されるところです。
最后に、私の家族に向けて伝えたいことがあります。私は今、法性土で非常に平穏に过ごしています。あなたたちも私と同じように、极楽世界への往生を自らの志とし、香光大仏寺を访れて真の仏法を学んでくれることを愿っています。
本日はここまでにさせていただきます。このように皆様にお话しする机会をいただけたことに、深く感谢申し上げます。香光大仏寺の皆様に感谢し、阿弥陀仏に感谢し、苏仏に感谢いたします。阿弥陀仏と苏仏が慈悲の御心をもって私を铜柱地狱から救い出し、西方法性土へと导いてくださったからこそ、私はここで真に生まれ変わり、全く新しい霊的な生命を歩み始めることができたのです。
今、私の未来は无限の光明と素晴らしさに満ちています。いかなる苦痛もなく、ただ纯粋な极楽だけがあります。なぜなら、私は自分が必ず极楽世界の一员になれると信じているからです。南无阿弥陀仏!