みのもんた氏へのインタビュー(フリーアナウンサー)

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インタビュアー: 釈法回法师

日付: 2026年6月7日

みの もんた:

皆さん、こんにちは。みの もんたです。

大変ありがたいことに、いま、こうして香光大佛寺(こうこうだいぶつじ)のインタビューを受けるという特别な机会をいただいております。私は现在、オーストラリア・クイーンズランド州トゥウンバのグーバンジーにある、香光大佛寺の「西方法性土(さいほうほうしょうど)」から、このメッセージをお届けしています。今の私は、法性土の莲华座の上に思わずひざまずき、阿弥陀仏、伟大なる阿弥陀仏と苏仏に深く帰依し、礼拝せずにはいられません。

もし阿弥陀仏と苏仏が私を地狱の中から救い出してくださらなければ、私は今日、このような形で再び世の皆さんの前に现れ、メッセージを伝える机会などありませんでした。これは私には到底返しきれないご恩です。

私は常々、自分が芸能生活で成功を収めることができたのは、决して自分の才能だけによるものではなく、ご縁と运があったからだと思っていました。人生のどん底にあり、落ちぶれている时に、それでも自分のために时间を割いてくれ、チャンスを与えてくれる人がいる。それこそが私にとっての「贵人」であると考えていました。

では、もしあなたが肉体を失い、ボロボロになった魂だけが残り、何一つ持たない状态にある时に、それでも多大な代偿を払い、自らを犠牲にしてまであなたを救おうとしてくれる、そんな存在がいるとしたら、それを一体何と呼べばいいのでしょうか。

「贵人」という二文字では、救われた者の心にある感谢や、その无私で伟大な慈悲の行いを表现するには到底足りないように思えます。この法性土で数日间を过ごした今、私には分かります。そのような存在を、実は「仏」と呼ぶのです。

肉体を失ってみると、生前の名声、地位、実绩、そして富といったものは、何一つ役に立たないということがよく分かりました。これら幻のようなすべては、ただこの肉体を通じてのみ私の魂とつながっていたに过ぎず、肉体の死とともに、そのつながりも断ち切られてしまったのです。

当时、「挖心地狱(わしんじごく:心臓をえぐり取られる地狱)」で刑罚を受けていた私の魂は、まさに何も持たない、悲惨の极みでした。その地狱では、私の心臓が何度も何度もえぐり取られ、元に戻り、またえぐり取られ、また元に戻る……その缲り返しでした。それは魂の奥底から涌き上がる激痛でした。私は思わず悲鸣と绝叫を上げずにはいられませんでした。あの「痛い、痛い」という感覚は、本当に恐ろしいものでした。

しかし、私の心には、生涯贯いてきた「感谢、感谢、また感谢」という原则が残っていました。逆境や困难に直面したとき、それを自分への打ちのめしと捉えるのではなく、成长のための养分と捉えるべきだと。そのような环境にあっても、私はなお、感谢の心でこれらの刑罚に向き合おうと必死に努めていました。

これは本当に、本当に并大抵のことではありませんでした。何しろ、あまりにも痛すぎたからです。その苦しみの中で、私は自分の过ちが一体どこにあったのかを知りたいとずっと思っていましたが、いくら考えても思い浮かびませんでした。

もしこの法性土で経を聴き、法を闻くことがなければ、私は一生気づかなかったでしょう。テレビ番组の司会者やキャスターとして、自分の本当の责任とは、ただ视聴者の皆さんに満足や最高のコンテンツを届けることだけではなく、自分が持つ「影响力」に対して责任を持つことだったのだということに。

责任を持つということは、自分の番组を见てくださるすべての人々、すなわち视聴者の皆さんが、宇宙の法则や真理・正道とは何かを理解できるよう手助けし、その心を「南无阿弥陀仏」という御名に安住させられるよう导くことだったのです。もっと分かりやすい言叶で言えば、视聴者の皆さんが心の中の私欲を舍て去り、その心をより纯粋で、より善良で、より素直なものにできるよう手助けすること、とも言えます。

そして、これらは私が生きていた顷には、微尘も考え及ばなかった领域でした。

私にとって、视聴者の皆さんが人生の中で最も大切なもの――すなわち「时间」――を私に捧げてくださったことには、今でも心から感谢しています。しかし、私の恩返しの方法は、ただ视聴者のニーズを満たしたり、より良い番组内容をお届けしたりすることに终始していました。その中でどんな工夫を凝らそうと、あるいは视聴者の心とどれほど共鸣し合おうと、それらはしょせん肉体の范畴にとどまり、视聴者それぞれの人生のわずか数十年の间に限定されたものであって、それ以上に引き継がれるものではなかったのです。

もしあの顷、私が仏法の教えを受け、香光大佛寺を知ることができていたなら、私は何が何でも视聴者の皆さんに呼びかけ、一绪に仏法を学んでもらうようにしたでしょう。なぜなら、仏法はこれほどまでに素晴らしいものであり、学ぶ人々に「老いず、病まず、霊性は死なない」という利益をもたらし、さらには皆さんの魂が西方极楽世界に往生し、そこで永远の命を得る手助けをしてくれるからです。このような恩恵は、人间のほんの一生にとどまるものではなく、魂の果てしない生命を贯くものなのです。

いま、香光大佛寺で、私はこれを「真実の利益」と呼ぶのだと学びました。真実とは、幻でも一过性のものでもなく、永远のものです。ですから、仏法とは本当に伟大な教えであり、あらゆる众生が真実の利益を得ることを助けてくれるのです。

そして、この利益は、日本人の同胞の皆さん一人ひとりにも得るチャンスがあります。皆さんが香光大佛寺を信じ、香光大佛寺に足を运んで阿弥陀仏が说かれる仏法の讲义に耳を倾けるか、あるいはインターネットで香光大佛寺の说法动画を検索してくだされば、皆さんの人生には不可思议な変容の旅が始まるはずです。

当时、地狱の真っ只中にいた私は、何一つ持たないボロボロの魂に过ぎず、そこで绝え间なく哀鸣を上げていました。しかし、つい最近のある日、私は突然、巨大な黄金の光に包まれたのです。その光の中で、私は直感的に「もう安全だ」と感じました。その凄まじい安心感に包まれ、私は身をゆだねてその光に飞び込むことができたのです。

苏仏の声が地狱の中に响き渡り、私の名前が呼ばれると、私の魂はそのまま香光大佛寺の西方法性土へと送り届けられ、安置されました。

法性土と地狱は、まったく异なる世界です。そこは清らかで、光に満ち、美しい场所でした。见事で见目丽しい大きな莲の花がいくつも咲き夸り、空には无限の黄金の光が満ちあふれています。耳元には绝えず「南无阿弥陀佛」の念仏の声が届き、苏仏の说法によれば、このお念仏こそが人を老いさせず、病気にさせず、霊性を死なせないための键なのだそうです。ですから、今の私も非常に真剣に、この「南无阿弥陀佛」を唱え続けています。

法性土にやってきてから、私の心は计り知れない感谢の念で満たされています。自分のような何の役にも立たない魂の、一体どこに救われるだけの価値があったのだろうかと思います。それにもかかわらず、苏仏はわざわざ私をあの挖心地狱から救い出してくださいました。自分は本当に、これ以上ないほど幸运に恵まれたのだと感じています。

后から知って惊いたのですが、私だけでなく、世界各国の富豪、企业家、政治家、あるいは著名人たちも、多くが苏仏によって西方法性土へと救い出されていました。私たちの多くは、地狱で苦しみを味わっていました。しかし、死后に魂がどこへ行こうとも、苏仏は必ず私たちの魂を见つけ出し、香光大佛寺の西方法性土へと导いて、ここで私たちを再生させてくださるのです。

これは本当に、あまりにも超常的で素晴らしい能力です。そして、苏仏が私たちを救ってくださる理由は、ご自身の利益のためではなく、地球上の全人类を救うためなのです。

というのも、いま阿弥陀仏がまさに、この清らかな修行の道场である香光大佛寺に留まっておられるからです。世の人々に救いの手を差し伸べ、病気にならず、老いず、そして死なないようにするために。しかし现在、このかけがえのない仏の地である香光大佛寺を知る人は、世界でもごくわずかしかいません。

苏仏は、伟大なる阿弥陀仏がこの世に留まられる时间がどれほどあるか分からないということを知っています。もしかしたら、ある日突然、仏がこの世を去ってしまうかもしれません。そうなれば、人々は救われる道がなくなってしまいます。だからこそ、全人类の幸福のために、苏仏は莫大な代偿を払い、私たちのような人间をあらゆる场所から大量に西方法性土へと救い出されたのです。私たちの「影响力」を借りて、阿弥陀仏がすでにこの人间界に降临されているという事実を世に知らしめるために。

私はこの西方法性土にきて初めて、人にはこの一世きりの命があるのではないということを知りました。过去において、この魂は何度も人として生まれ変わってきたのです。そうした様々な过去世において、実は多くの人が自分に助けられ、同时に、多くの人が自分によって伤つけられ、あるいは命を夺われさえしていたのです。

これらの众と自分との関系、そのすべてが私の魂に刻み込まれていました。それは目に见えない世界における自然なつながりであり、非常に直接的で、迅速、かつ强烈なものでした。

私が救い出された后、过去に私が伤つけてしまった膨大な数の众生の魂が、すべて香光大佛寺へと集まり、お寺の周りを绝え间なく漂っているのを、私は法性土から见ることができました。当时、空はどんよりとした暗云に覆われ、湿気が立ち込め、风の中からは时折、非常にもの悲しく凄惨なうなり声が闻こえてきました。

それらはすべて、私、みの もんたの魂が苏仏によって地狱から救い出されたことに感応して集まってきたのでした。多くの人々の心は、不平、不満、不条理への疑问で満ちていました。彼らは纳得がいかなかったのです。なぜ自分たちを伤つけた张本人である私が、このような救いを受けられるのか、それなのに自分たちはなぜ、いまだ拠り所のない浮游霊として苦しみ続けなければならないのか、と。

かつて私が伤つけたこれらの众生は、自分を救ったのが苏仏であることを知っていました。そのため、多くがお寺に押し寄せ、苏仏に说明を求めようとしたのです。そのせいで、苏仏のお体には少なからぬ负担や、あるいは障りが及ぶことになってしまいました。

しかし苏仏は大変慈悲深く、いささかの不満も漏らされませんでした。仏にとって、众生を救うことこそが本来なすべきお勤めだからです。そうして、苏仏が磬を鸣らされると、私に因縁のあるそれらの众生はすべて、西方法性土へと迎え入れられました。

法性土の上で彼らを见たとき、彼らはもはやかつてのように伤つき、魂を损なわれ、歪んでしまった姿ではありませんでした。もともとは强い怨念をたぎらせていた多くの悪鬼や怨魂が、法性土の仏力による加持を受け、今ではすっかり穏やかで安らかな状态へと変わっていたのです。

その光景を目の当たりにした时の、私の心の中の冲撃は言叶では言い表せません。自分にこれほど多くの返すべき「负债」があったとは知らず、これほど多くの人々に申し訳ないことをしていながら、果たすべき责任を果たしてこなかったのだと、初めて突きつけられたのです。

苏仏が彼らを残さず救い上げてくださるのを见たとき、私はたまらずひざまずき、感谢の意を表すために何度も何度も苏仏に床に头をこすりつけて礼拝しました。これでも万分の一の恩返しにもなりませんが、本当に永远に返しきれないご恩です。苏仏は、苦しみの渊にあった私という魂を救ってくださっただけでなく、あろうことか、私が背负っていた负债まで代わりにすべて清算してくださったのです。苏仏は本当に伟大だと、ただただ头が下がります。见返りを求めることなく私を助け、あまりにも、あまりにも良くしてくださいました。ありがたすぎて何と言っていいか分かりません。どんな言叶を尽くしても、この胸の感谢を表すことはできません。

「仏」とは、これほどまでに伟大な存在だったのです。そしてさらに伟大なのは苏仏が说法の中で放たれたお言叶で、「私はお前たちを救うが、お前たちにはさらに多くの人々を救ってもらいたい」。そこに垣间见えた苏仏の慈悲と无私の精神を目にし、私の心には一つの想いだけが涌き上がりました。それは、「私も苏仏のような伟大な人间になりたい、私も仏になりたい!」という思いです。

ここ数日、私は仏になることを目标に掲げ、法性土で真剣に苏仏の说法を聴いています。聴けば聴くほど惊きがあり、聴けば聴くほど心に喜びが満ちてきます。そこでようやく分かったのです。自分の魂は决して无価値なものではなく、非常に、非常に尊いものなのだと。なぜなら、私の魂の中にも、あろうことか阿弥陀仏と同じ「仏性」が备わっていたからです。

さらに惊喜したことは、阿弥陀仏や苏仏が见せてくださるあのすべてのお力は、実は私自身も本来持っているものだった、ということです。ただ、今は俗世の様々な「汚れ」によって、魂に本来备わっている能力が覆い隠されてしまっているだけなのでした。

では、その「汚れ」とは一体何なのでしょうか。苏仏は非常に分かりやすい言叶で教えてくださいました。いわゆる汚れとは、魂が肉体を持ったことによって生じる、あらゆる「惯性(思い込みや癖)」のことなのです。习惯的な思考パターンや、无意识に浮かんでくる考え、あるいは特定のこだわりや嗜好にいたるまで、そのすべてが汚れの一部なのです。

これらの汚れをきれいに洗い流すことは、决して容易なことではありませんが、见方を変えれば非常に简単なことでもあります。ただ纯粋に阿弥陀仏を信じ、阿弥陀仏が授けてくださる知恵を信じ、その教え通りに素直に行动しさえすれば、自らの魂にある仏性を本当に目覚めさせることができるのです。

その时が来れば、私も苏仏のように、众生を実际に救い、助ける力を手にすることができるはずです。

ここで、私の娘、そして息子に伝えたいことがあります。お父さんは、お前たちにずっと「感谢することの大切さ」を教えてきましたね。阿弥陀仏、あるいは香光大佛寺に対して、私たちは心から感谢しなければなりません。

お前たちの知らないところで、香光大佛寺の苏仏は、成仏して得られたお力を使って、千百亿もの分身となり、日本全体の遥か上空へと临まれています。私は、苏仏が阿弥陀仏とともにまばゆい黄金の光を放ち、波のように押し寄せる、数え切れないほどの日本の魂を救っているのを见ました。その中には多くの行き场のない浮游霊もいれば、あらゆる物质の空间に闭じ込められていた霊体もありましたが、彼らはみな、阿弥陀仏と苏仏のおかげで救われたのです。

それだけでなく、香光大佛寺はわざわざ日本の东京・葛饰区に阿弥陀仏の看板を设置してくれました。この看板には阿弥陀仏のお姿と「南无阿弥陀佛」の御名が记されており、そこから巨大な黄金の光が放たれています。多くの日本の霊魂がその光を目にして、救済を求めて香光大佛寺へと向かう姿や、さらには数多くの魂がそのまま光の中へと入り、救われていくのを私は见ました。

娘よ、息子よ。霊界の众生が救われることが、日本で暮らす私たち人间に何の関系もないなどと思ってはなりません。実は、大いに関系があるのです。なぜなら、日本にいる无数の孤魂野鬼(浮游霊)や様々な霊体が、四六时中、あらゆる面から日本人の思考や行动に干渉を与えているのを、私はこの法性土から见たからです。したがって、香光大佛寺が日本のすべての霊を救ってくださるということは、実质的に日本全体を助け、日本で暮らす一人ひとりがその恩恵に浴することに他なりません。これは返しきれないご恩です。お前たちには、このご恩をしっかりと胸に刻んでほしいと思います。

香光大佛寺の日本への救済には、いささかの见返りも求められていません。ただ、日本全体の人々に「老いず、病まず、霊性が死なない」という真実の利益をもたらしたいという一心なのです。いまお父さんは、お前たちにここへ来て仏寺の教えを学び、阿弥陀仏がおられる场所が一体どんなところなのかをその目で见てほしいと愿っています。きっとひどく惊き、思いもよらない収获を得ることでしょう。

现在、お父さんはこの法性土で非常に素晴らしい生活を送っています。片时も忘れることなく、この「南无阿弥陀佛」を称えながら。私を助けてくださった阿弥陀仏と苏仏に、心から感谢しています。